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-オシツオサレツ日々は過ぎる

世田谷パブリックシアター「偶然の音楽」

とても良かった、ひとことで言えば簡単すぎるけど、それに尽きる。


オケピしていた白井晃氏演出による、ポール・オースターの翻訳劇。
青山円形で「エドモンド」を観たときに、チラシを見たのが、初だろうか?オースターのいつも惹かれる翻訳題名と、中村トオル氏の姿がぱっと見格好良すぎて、一も二もなく観ようと言っていた。


飽きない濃い、目の離せない2時間ちょっとだった。
シアタートラムには行ったことあるけど、初めて行った世田谷パブリックシアターは非常にオシャレ。椅子と足置きが連動して出てくるのも至れり尽くせり。傾斜があって、勿論前の人の頭で舞台が観れないとオロオロすることもない。


して、始まった「偶然の音楽」。
クラッシック音楽に合わせて動く効果ともいえるキャストたち。時流れる早さ・小道具の出し入れ、なんらかの間を入れて入れ替わりをしがちなそれらが、音楽のテンポに合わせて澱みなく出入りすることで表現される。


脚本に合わせて役者たちが表現力を最大限に発揮しつつも物語しか表現しない、平坦に進んでいく劇しか観た事がなかったので、この偶然の音楽の演出はなんだか面白いぞと、すんなり世界に入り込んでしまった。真っ赤なサーフ(車)は玩具サイズで登場するも、何気ない椅子に座ったナッシュ役の中村トオルがハンドルを操作する仕草をすると、効果キャストたちが周りをダッシュする。ビリヤードをつくシーンでは、彼らが互いに床に玉を転がしあったり。照明効果もすばらしかった。四角い照明は、走り去る車のウィンドウそのもの。雨の降る様子。日が明けていく様子。そして最後の真っ白なシーン。


上辺になりがちな小説の文章がこうも演劇となるなら、劇化はやぶさかではないなと、気分転換の笑いを求めがちだった劇を今日は改めて見直した。これは劇を見始めるようになったときに思ったことだ。元々映画好きで、初めて劇をまともに見たときに、映画と劇の表現方法の善し悪しについて考えたことがあった。誰が観ても判るべきの映画と、誰が観ても解釈を一定としない劇。劇の方が表現方法が自由で、創作すれば無限の広がりがあるように、そのとき思ったのを思い返した。


ひとつ悔やまれるのが、劇場でパンフレットが買えなかったこと。部数がなかったせいか、入ってすぐの時点で当日販売のパンフレットは完売しましたと虚しい文字。帰りもグッズ販売の回りをウロウロしたけど、Tシャツとポスターしかないことにがっくり。こんなに良かったのに、パンフが買えないなんて・・・。
(ああ、本気でパンフを譲ってくれる方探しています)