PUSHMIPULLYU

-オシツオサレツ日々は過ぎる

「ドラクル」@シアターコクーン

市川海老蔵宮沢りえ永作博美らの豪華キャストにして、長塚圭史演出・脚本のドラキュラ演劇。
20分休憩ありの二部構成で「ながっ」とは思ったが、いいかげんどうにかしてくれ!!というイライラというよりは、心地よい暗さに眠さに抗えない自分がいて、あぁ・・面白いけど寝てしまう〜という感じだった。

なので、総じて面白く、興味深い世界を長塚圭史は作ったなと。

「神(God)」がテーマ。
しかし、無神論者の多い日本にはわからないのが、この「神」。
そりゃ、志望校受験のテスト用紙を前に「神様仏様〜、八百万の神様、合格できるように助けてください」と祈ったことがないわけじゃないし、ピンチなときに「どこかの神様が助けてくれるんじゃ?」と思ったこともあるが、それがまずキリスト教世界の「God」とは根本的に違う。だって、七福神にしてもすでに7人いるし、あとは貧乏神様にたたり神様とか、ともかく救ってくれるのはイエス・キリストひとりじゃなくて、日本人には用途(?)に応じた神様が場面場面で助けてくれるという思考が強い。だから祈りも誰にしていいかわからないので、とりあえずご先祖様に「見守っていてください」とか言いたくなるわけだ。

ところがキリスト教の神様はイエス・キリストひとりだ。(神様の数え方は「人」なんだろうか・・・?)聖書を読んだことがないので、教えについては全くの無知だが、私の感覚で言うと「いつでもどこでも神様は見てるし、あなたを常に思ってる」と慈愛とか救い・許しを神に求めている(ような気がする)。だから日々祈るし、祈りが通じれば救われ、更に感謝の祈り、悪いことは懺悔し、また祈る。

「じゃあ、祈っていれば神はどんなことした者も許してくれるのか」がこのドラキュラ劇にはあったと思う。すでに人ではない者(ドラキュラ)が「神」に救いを求めること自体が、なんか不思議だった。確かに人が作った(?)神ではあろうし、祈りの対象者が限定されているわけではない。でもそれをいうなら、神様だって元人間でいまは人間じゃなく、元人間じゃない者が救われてもいいのかとも思う。
でも最終的に思ったのは、人は祈りを神様に捧げ許しを求めたりするけど、それを許すのは神じゃなくて、常に人間だってこと。自分なり相手なりが、心を許してくれれば救われると。

そんな思考世界へ飛びたくなるような演劇だったかと。
あと、せっかく長塚さんが英語で書いてまで翻訳調にしたという科白は・・・、まったく意識せず普通に観てました、すんません。いつも翻訳SFとかミステリとかペラッと読んでいるので、違和感がなかった・・・。

中山祐一朗さん、豪華キャストであまり活躍は期待できないか?とか思ったけど、そこは長塚さんいいように使ってくれて、復活したのにそれに気づかないドラキュラという「らしい」役では、ちょっと笑いが起こっていて、はははと。